web master’s voice in Japanese (17) 2018/5/30
万葉集は日本最古の歌集です。七世紀半ばから八世紀後半にかけての時代を中心とした四千五百首余りの歌が二十巻に収録されています。貴人のみならず、防人や遊女など一般庶民の歌まで幅広く集め、また、形式もさまざまです。
長年にわたる幅広い分野からの歌が集められているだけに、その成立の過程は明らかになっていません。長い年月の間に三回ほど、複数の選者によって編まれ、最後に大伴家持が纏めたという見方が有力なようです。
大伴家持は八世紀後半を代表する歌人で、その作品は473首が万葉集に入っており、万葉集最後の歌「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」は家持が、天平宝字三年(759年)の正月に詠んだものだそうです。
大伴氏は皇室を軍事面で支えてきた古代からの名門中の名門であったものの、宮廷内の勢力争いに敗れ、さらに藤原氏の台頭で中央政界からは姿を消して行きました。家持は没落する大伴家最後の有力者でした。上述の万葉集最後の歌は、家持が大伴家の再興を願った歌とも伝えられています。
江藤潤さんはその著書の中で、日本文化の伝承に触れ、滅びゆく名族が歌集を編纂している不思議に触れておられます。
万葉集は大伴家持、古今集は紀貫之、新古今集は藤原定家が中心になって編纂されたと考えられていますが、貫之も定家もそれぞれ紀家、藤原家の最後の輝きとも言える存在でした。
一方で、岡田英弘さんによると、支那では司馬遷の「史記」以来、歴史書は時の政権の都合によって書き換えられてきました。時の政権の権威づけの為には、敗者を貶め、史実とかけ離れてしまうことも厭わなかったのです。
日本には滅びの美学があります。敗者への尽きせぬいたわりがあります。日露戦争ではロシアの捕虜に温かく接し、乃木大将は敵の将軍ステッセルを水師営に礼をもって迎えました。将棋では相手の駒を捕った後は、自分の駒として活かしますが、他国のゲームでは例を見ない独特のルールのようです。
滅びゆく者への哀惜と畏敬が日本文化の底に流れているようですが、政治的には恵まれなかった家持が、なぜ、国家的大事業だった筈の万葉集の編纂に中心的な役割を占めることができたのか、興味深いところです。