web master’s voice in Japanese 2018/8/11
漢字文明の受け入れ
かつてアジアの国々に強い影響を与えた中華文明ですが、その中心には漢字がありました。文字を持たなかった紀元前後の国々や民族にとって漢字は画期的な新文明でした。
各国は自国の言葉に合わせるべくさまざまな工夫を凝らすものの成功せず,結局、漢字、漢語をそのまま外国語として受け入れ、自国の言葉と併存する形となりました。文字を持つ外国語と文字のない自国語が並立すると、エリートの言葉と庶民の言葉に分かれ、せっかくの先進文明の受け入れもエリートに留まり、庶民にまで幅広く広がることはありませんでした。
日本列島にも紀元前後に漢字は到達していたと考えられていますが、普及するのは六世紀ごろからです。我が先人たちは健気にも、五百年かけて、日本語を保ちつつ漢字を有効に受け入れる方法を試行錯誤してくれたのでしょう。
訓読みをすることで、漢字を、日本語を表記する文字として活用する方法を編み出しました。また、漢字から“かな”を創出して、訓読みと“かな”を組み合わせることで、日本語を自由に表記できる文体を創りだしました。
この工夫により漢字と云う新しい影響力の強い新文明を受け入れながらも、日本の伝統文化を守り、しかも、新文明がエリート層に限定されず、ひろく国民全体にいきわたる土台ができました。
八世紀の歌が中心の万葉集には遊女や防人の歌が含まれていますが、文字は貴族階級だけでなく、大衆にも広まり始めていたのかもしれません。十世紀、十一世紀には源氏物語を始めとする世界に冠たる数々の女流文学作品が出ていますが、これは女手と呼ばれる“かな”文字の成果と考えられています。
江戸時代には、江戸の識字率は八割、日本全体でも五割程度と推測されていますが、この高い識字率は漢字を日本語を表記する文字として活用するという驚天動地の発想なくしてはなし得なかった筈のことです。
明治時代は西洋文明を急ぎ取り入れる近代化に邁進しました。東京大学は明治十年に開校しましたが、教師の半分は欧米人であり、授業の多くは西洋語でした。しかし、西周や福沢諭吉を始めとする多くの学者が苦労を重ね、主要な西洋語は適切な訳語を創りだして日本語としてしまいました。
明治の末期には、日本は世界の一等国として認められるほどの急速な近代化を成し遂げましたが、訳語の普及による近代文明の大衆への浸透なくしては、実現できないことでした。
現代日本語の七割以上は明治以後の新造語だそうですが、その多くは今も、思想・政治・経済・社会などあらゆる分野の主要な用語として利用され続けています。
新しい文明の受け入れに際して、伝統文化との調和を図り、また、エリートの占有とせずに、広く大衆にいきわたらせる工夫をしてきたのは日本独特の貴い伝統かもしれません。
昨今は小学生への英語教育だの、米国式AI教育の取り入れなどが議論されますが、先人の素晴らしい智恵と業績を手本に、受け入れの是非、また、受け入れ方法を熟慮する必要がありそうです。